「個人の想い」vs 「集合意識」
多分、この記事を読んで頂く方は不快になると思います。
世の中が一様に否定していることについての事柄だからです。
なので長くなりますし、スルーして頂いても構いません。
この想いを、掲載していいものかどうか散々考えました。
自分の中にしまっておくべきものなのか・・・と。
ただ「考える」と言うことは、やはりアウトプットしていくべきだと。
「自死」についてです。
これに関連して、もう一つ提起したいのは、
「世の中の価値観」=「集合意識の狂気」のことです。
この二つは異様に絡み合っている気がしてならないのです。
事故死、病死、老衰死、自死、等々、
どれをとっても物理的な「死」と何ら変わりはありません。
これがこの記事の大前提となります。
ただ「自死」だけは、世の中から忌み嫌われています。
僕が問題にしたいのは、世の中が一様に認めていないと言うことです。
世の中の価値観=集合意識と置き換えます。
世の中は「相対性」で成り立っています。
「右」があって、初めて「左」を認識できる。
これと同様に、「生きる権利」は声だかに主張されています、
「死ぬ権利」は・・・。
個人にその権利は当然あるのは承知していますが、
前述した「集合意識」がそれを否定してしまっています。
僕は決して「自死」を推奨しているのではありません。
「右」を否定してしまえば「左」は存在しなくなります。
これと同じことなんだと思います。
また、「死」が全ての生き物の終焉かのように理解していますが、
本当にそうなんでしょうか。
誰も見たことがなく、聞いたこともない、いった?こともない。
当たり前、経験していないのです、わからないものに対して
どうしてそのように結論付けるのでしょうか?
一様に、悲しいとか、寂しいとか、「自死」はいけないとか
といった理解をして、ある一定の、一律の行動をしてしまっています。
一定の、一律と言うのは、
自死と言う行為を非難し、嘆き悲しみ、自分の無力さを呪う。
ただしこれは、この世に残されたものの勝手な行為とも取れます。
もう一度問いますが、「死」が全ての終わりなのでしょうか?
物理的な終焉は必ずあると思います、諸行無常の世界観です。
ただ僕は「魂」が滅ぶとは、どうしても思えないのです、
例え、それがどんなことで死に至ったかの区別なく。
この行動の源は多分「宗教」なんだろうと考えます。
僕は宗教を否定しているのではありません。
何を信じるのかは個人の自由です。
ただ、ただ考えて欲しいのは、
自分が、自分から素直に発せられた純粋な「想い」であるのかどうかです。
これが「集合意識」との摩擦の原因になっているのではないかと。
お隣では戦争が始まりそうな気配です、いまだに戦争をしている国もあります。
「自死」は決してしてはならないと確固たる信念に近いようなものを持ちつつ、
戦争=国同士がやっている殺戮だから容認に近い考え方をしている。
「容認」が言い過ぎであったとしたら、いけないことだと分かりつつ黙認している。
これが「集合意識の狂気」なんだと思います。
「ヒットラー」自体は狂気でもなんでもなく、
それに賛同し、支持したドイツ国民、国自体、それが狂気なんだと僕は思います。
当時の日本も同じです。(ドイツだけではありません)
最近色々な方のブログを拝読させて頂いていると、
この「集合意識」と「個人の純粋な想い」との間で苦しんでいる方を
相当数見受けます。
他人事ではない心の葛藤だと思います。
本当は死にたいのに、それをある一定の意識が邪魔をしている。
私が死んだら、まわりが悲しむ、迷惑をかけるのではないか・・・・。
気がついたら「自死」はいけないことだと思い込んでいる。
「いけない」これは、それまでの教育や世間の価値観であって
決して一個人から発しているものではないと思うのです。
これがスパイラルになって余計に自身を追い込んでいるような気がします。
僕は「生」や「死」を否定も肯定もできません。
ただ、他人が「自死することがいけないこと」だと断言するには、
では、なぜ「生きる」ことが「善」なのか、
それ以前に「なぜ生まれてきたのか」の理由が判らなければ、
それを肯定、否定することもできないと思うのです。
「価値創造さんのブログ」を拝読させて頂いていると、
これからの社会は、社会中心、会社中心から、個人、個人の豊かさの追求になっていく、
そんな時代が到来すると・・・・、僕もそう思います。
「個人の豊かさ」とは、
個人、個人の純粋な想いが集合意識に迎合することなく、
素直に尊重されるべき、認められるべき、
そういうものなんだと僕は思います。
PS
最近、どの企業の不祥事もその企業の狭義な「集合意識」が影響しているのでは?
と、考えてしまいます。