「理解に苦しむ行動」と、その理由。
僕の父のこと。
大正生まれで十人兄弟の末っ子(すでに数十年前に他界していますが)
戦争に行ってたり、大正生まれですから、それはそれは厳しかった。
ただ時に理解に苦しむ行動をすることがあったのです。
ごはん茶碗が少しでも欠けていようなものなら、母親に文句をいう。
(ほんと、ほんの少し、数ミリ程度・・・それでもなんです)
箸もしかり、食事のことになると一段と厳しくなる父親。
母親もハッと気づきすぐさまその茶碗や箸など変える。
「じゃがいも」が大嫌いな父親・・・、
ま、食べ物の好き嫌いは人それぞれなので仕方ないとしても。
前述の「欠けた茶碗」だけは、僕にもど〜しても理解できないことの一つ。
一家の大黒柱だから? それほど偉いの?
茶碗が欠けてたって、ご飯をよそって食べられりゃ、それでいいんじゃない?
なぁ〜んて心の中で思っていました。
でもずっと気になってたんです。
大人になって父となんでも話せるようになってから、
その理由を聞いてみたんです。
十人兄弟の末っ子なんて、その昔は「ねこのしっぽ」と言われていたそうです。
あってもなくてもいい = いてもいなくてもいい。
ど〜でもいい存在・・・存在自体そのものががぞんざいに扱われていたそうです。
そんなことが当たり前にどの家庭でも行われたいた時代。
そんなことが原因であったと話してくれました。
母親は父が生まれたからすぐに亡くなったそうで、
そんな時代だから、兄弟は誰も庇ってくれなかったとも言ってました。
時に、理解に苦しむ人の行動を見かけます、
色々な場面、ビジネスでも、プライベートでも。
ただそんな行動にも、何か特別な理由があるんじゃないかって思うんです。
人や物事に「結果」だけがポツンと決してある訳ではなく、
必ず「原因」が存在していること、僕の父がそうであったように。
そんな「冷静な目」が必要だと、ここ最近思うことです。